「常識」は思考停止の言葉

常識は思考停止の言葉サムネ

Moi
こんにちは、ロニーです。

ここ2か月間、ずっと試験勉強や受験をしていて若干疲れも感じ始めてきました。
頑張ったおかげで必要な資格を既に3つ取得していて、順調に目標に近づいています。
そのことに関してはまた後日ブログに書きます。

試験も含め、ここ最近は大きく心が乱されることが多いのですが、
早く元通りの日常に戻って家族で幸せなクリスマスを迎えられることを願っています。

 

さて、本題。

あなたの「嫌いな言葉」はなんでしょうか?

使いたくないし、言われたくない言葉。色々あると思います。

僕は昔は「センス」って言葉が嫌いでした。
人が先天的に備えていて、凡人が努力やマインドでは得ることができない才能のようなもの。
そう捉えていたので、まぁ僻みの気持ちも伴って、
強いネガティブな印象を持っていました。

しかし紆余曲折を経て、「センス」という言葉を肯定的に捉えることができ、今では嫌いな言葉から外れました。

それと入れ替わりで、僕が幼少期から凄く嫌いな言葉が次点1位に浮上してきました。

それが「常識」

この言葉を無自覚に使ってしまうことの強い危険性について、今回は書きます。

「常識」は思考停止の言葉

常識とは何か

常識とは、一般人の持つ考え、普通の見解を指します。

そしてこの一般とか普通という言葉は、社会におけるその時間と空間において主流とされるもののこと。
つまり、常識とは、ある時期・時代の、ある特定の地域において、当然とされる考え方です。

さらにいえば、法律のような明文化されたものではなく、
マナー、知識、不文律のような、曖昧で、非・固定的なものです。

常識は、閉鎖的で固定的な集団の中ではより法則のような縛りの傾向を強くする一方、
流動的で変化の大きい集団の中では、その拘束力は弱まり、むしろデメリットの方が強く表出します。

行動経済成長時の、一致団結して一つの目標に向かうという時代には良い効果を発揮したでしょう。

また閉鎖的なムラ社会でも、常識は効果的なはずです。
細かい認識合わせをいちいちせずに済み、諍いを減らせるからです。

一方、技術発展によって文化や社会構造が目まぐるしく変化し、
グローバル社会でヒト・モノ・カネ・情報が常に動く今の時代は、
異なる常識を持つあらゆる人が常に周りに居ます。

個々人がそれまでの人生で積み重ね、磨いてきた常識感覚は、
結局は自分や自分の身近な範囲内でしか通用しない考え方になっています。

どれだけその考え方がかつてはうまくいっていて、自分の家族や友人や同僚の間で共通認識として成立していても、一歩そのコミュニティの外へ出れば、小さな一個の考え方に過ぎなくなります。

都市部であるほど、違う環境に身を置いてきた人が密集していて、しかも地方ほどの深い関係性を持ちません。
実生活では、全く違う常識を持っていても、それを相手に強要することはないし、わざわざ指摘もしないでしょう。

人は、松岡正剛の編集工学的にコミュニケーションを取っていると僕は考えています。
お互いのインターフェースを通して、既存認識同士の理解し合える部分を摘まんで拾い上げ、自分なりに解釈し、その瞬間瞬間に自分なりの理解を構築しています。

人とうまくやって行こうと思うなら、
現代社会の、とりわけ都市部でうまくやって行こうと思うのであれば、
「常識」とは何かをよくよく考えた方がいいでしょう。

常識に囚われることがどれだけ不毛で、時代遅れで、リスキーなことであるかが分かると思います。

常識は関係性をスムーズにする潤滑油にもなりますが、
「自分の常識は他人の非常識」という原則は、確実に押さえておくべき点だと思います。

常識という言葉を使う人の頭の中

なぜ人はわざわざ「常識」という言葉を使うのか。

その理由は2つ、考えられます。

一つ目は、大義名分を加えることで自分の主張を大きく見せ、優位に立ちたいから

主語を大きくすることによって、自分の意見の方が正しいということをアピールします。

しかしそれはあくまでその人自身が、自称多数派であると思っていることを伝えているに過ぎません。
統計など取れないのですから。

 

二つ目は、相手を自分と同じ考え方に染めようとする気持ちからです。

しつけ、教育、アドバイス、強要など言い方は色々ありますが、本質は一緒です。

自分と同じ考え方であれば、争いを減らせるし、コミュニケーションコストは減らせるし、自分の考えを曲げる必要なく相手との関係性を楽に構築できます。

そこにはメリット・デメリットが両方あるでしょうが、
相手の主張を聞かず一方的に自分の主張を押し付ける傲慢さが隠れています。

「常識でしょ」というのが北風であれば、
相手の常識は何だろうか、なぜそう考えているかの背景をしっかり受け止めることが太陽と言えそうです。

 

以上の2点を考えると、
常識という言葉を敢えて使って相手に自分の主張を伝えることは、
思考停止であると言えます。

相手はどういった考え方を持つのかを聞き、
自分の考え方との差異を明確にし、その接点を探る、という、
必要な関係構築のための思考プロセスを端折ってしまっています。

他者を尊重する気持ちを持ち、その人から学ぼうと思う気持ちがあれば、
迂闊に常識という言葉を主張の根拠としては使えないはずです。

疑う心と切り開く心

常識はすべての人の中に、それぞれ存在します。

常識は、幼少期に教えてもらったり、刷り込まれたり、自主的に学んできた考え方の結晶です。
それを実生活で使い、フィードバックを経て磨き上げてきた、自分なりの処世術でもあります。
数々の対人関係の中で、これが常識だろう、と認識して積み上げてきた財産と感じられるかもしれません。

しかしこの流動的で変化の多い現代では、固定化した考え方は他者との摩擦を生み出し、流れを滞らせる原因ともなってしまいます。

どうしたら、自分の中の常識をもっと柔軟に出来るのでしょうか?

 

ひとつは、自分の考え自体を疑う習慣をつけることだと思います。

僕のITの先輩であるUさんは、僕がなぜ仕事上の見落としやヒューマンエラーを防げるのかを尋ねたときに、こう答えました。

「すべてを信じないから。他の人はみんな気が狂ってると思ってる。
自分自身も信用しない。だから何回も何回も見直す。」

これは以降の僕の考え方に大きな影響を与えた言葉です。

人はみんな間違えます。どれだけ気をつけても。
機械ですら、極端に低い可能性ではありますが間違えることがあります。
(条件の不一致、電磁波の干渉、情報の欠落などによって。)

常に「自分は正しくない可能性がある」ことを認識しておかねばなりません。

 

もう一つは、自分から新しい考え方を切り開いていくことです。

周りから受動的に受けた考え方や、
今までの経験の延長上で考え方を使い続けていると、
別の考え方を受け取ることに億劫になってしまうように感じます。

自分なりの新しい考えは、思いついた時点では「仮定」です。
その仮定を、敢えて試してみる。
これがサビついた思考や慣習をリフレッシュしてくれるんじゃないかと思います。

僕自身はこちらが割と苦手なので、修行中です。
どうしても思考のサンクコストに引きずられてしまいますが、
風の時代だからこそ、頭を風通しよくしたいものです。

おわりに

僕自身がどれだけ常識という言葉を使わず、行動していても、
その常識を押し付けてくる人はどうしても存在します。
そしてそちらがおそらくマジョリティ。
だからこそ「常識」と思われているからです。

 

他者からの「常識」の押し付けに対し、どう対応するか。

自分の中に毒を持つのはとても大事だと思っています。
ただ流石に岡本太郎氏のように、
常識人間に対して表立って対立するスタンスを取ろうとまでは、僕は思いません。

僕自身は基本的にケンカのようなピリピリした関係性が嫌いだからです。

わざわざ波立てずとも、
「あぁ、この人はこんな考えを持つ人なんだな」
と思うだけでいいんじゃないかと思うのです。

大衆における、ある思考回路を持つ人々の構成配分は時節によって変化するけれど、
巨視的には概ね比率が安定していると考えています。

信念を説得力を持って主張できるほどの才能的裏付けを持たない僕はインフルエンサー足りえず、むしろ思考は自分の中に静かに据えておいて、和を以て貴しとなした方が幸せだろうと思い、基本的には主張を受け入れる立場を取ることが多いです。

そう行動で示しても人は察してくれないものですから、言葉に出して伝える必要もあるんですけどね。

 

なお僕がこの考えを持つに至った理由は、

ひとつは大学の比較文化学科において、他者理解についてしっかり学んだからです。
もう一つは日本と世界を旅したことで、全く違う価値観に多く触れたから。
さらに、多くの本を読んだから。
全く違う様々な意見を俯瞰的に知る最も手軽な方法が読書です。

そして最後に、バンド仲間、パートナー、子供、介護の利用者、転職前後の会社風土など、
異なる色んな人と密に触れあってきたからです。

僕のこの考え方もまた、僕なりの常識なんですけどね。
ヒューム、カント、ヴィトゲンシュタインなんかを学んだらまた別の意見になるかも。

常識を打破するきっかけは、いつでも自分の気づきから始まる。
このブログが少しでも他者理解を進めるきっかけになることを願います。

今回は以上。

モイモイ!

 

 

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