Terve!
こんにちは、ロニーです。
3年に1度の頻度で行われる横浜での芸術の祭典で、
「横浜トリエンナーレ」という芸術祭があります。
コロナ禍の間中止されていたのが今年2024年は開催するとのことで、妻クルタさんが行きたいといのでこれは面白そうだとくっついていきました。
開催期間は3月15日~6月9日までと結構長かったのですが、我々は最終日6月9日に行ってきました。
今回の第8回横浜トリエンナーレでは会場が数か所あって、横浜美術館、旧第一銀行横浜支店など。
我々五十嵐家は横浜美術館で見た後に、同時開催されている黄金町バザール2024というアートイベントを梯子しました。
黄金町バザールもトリエンナーレの一環だと思っていたら実は違うと後から知りました。
今回はその横浜トリエンナーレと黄金町バザールに行った感想、
ついでに僕のアートに関する所感など書きます。
横浜トリエンナーレ2024に行ってみた
第8回横浜トリエンナーレ
横浜美術館へは横浜のJR桜木町駅から少し歩きます。
今回、事前情報なしでいきなり見た形ですが、政治的なメッセージ性が強くて予想外でした。
政治的と言っても特定の政治思想を肯定・否定するものというわけではなく、反戦争、反体制、反独裁といった印象。
また同時に、環境破壊に反対する主張も強かったですね。
なのでポジティブで建設的なメッセージというよりも、怒りのようなネガティブなメッセージオーラが強く、楽しい感じではなかったです。
とはいえ作品の形態も雰囲気も多種多様なので、そんな中には自分の心の琴線に触れるようなものもあるのかなと、それを探すようなスタンスでざっと見て廻りました。
印象に残ったのは、ダークな海の上に竹取物語の天人というか仏の軍団みたいな連中が雲に乗って飛んでいる絵画、
材木やLANケーブルや酒屋の前掛けなんかが雑多に散らばってキャンプの一角になっているような展示、
あとおじさんが楽しそうに車にお尻が生えたオブジェクトを眺めている加工写真など。
僕としては今回は感動するほどのものはなかったな~という印象でした。
黄金町バザール2024
桜木町からしばし歩いて、黄金町というところに移動し、川沿いに点在するあちこちの展示場でも作品を見ました。こっちはもっとアマチュア的でしたね。
木の枝を組んで作ったジャングルジム。
溶けた氷の水が2階から垂れてきて音を鳴らす(そしてそれを見ている人たちの声を別の部屋で放送している)仕組み。
ミラーボールが光るピンク色の謎の部屋の植物。
あと家電ゴミで作られた屋上にある階段なんかが面白かったですね。
こちらも度肝を抜くような作品はなかったのですが、自分も作ってみたいと思わせるような気持ちが色々湧きあがってきて楽しめました。
ただまぁ、疲れますね…移動距離多いので。
次は3年後か。3年はあっという間ですし、その頃にはコニーも6歳になっているのでもっと違った楽しみ方もできそうです。
次回にも期待です。
ロニーのアートに対する考えとか
僕は芸術を学んだわけではないので詳しくは知りませんが、クルタさんからの影響で徐々にアートに対する向き合い方が変わってきています。
元々は、芸術とは真善美を追い求める技術手法の進化という線上で見るものだと思っていました。
ずっと現代アートを見たことがなかったので、アート=美しいものというイメージでした。
しかしクルタさんに「そうとは限らない」「そうじゃないといけないことはない」「もっと自由でいい」「固定概念が強すぎる」「発想が凡人」と毎日言われ続け、また一緒に現代アートの美術館や美術展に行くうちにちょっとずつ考えが変わってきました。
まず最初の認識の変化は、芸術の目的は真善美を体現する技術を見せつけることではなくて、作成者のなんらかの主張を届けることなんだろうな、と思ったことです。
写真の登場によっていかに写実的でリアルに近いものを書くかという目標が無用なものになると、今度はどのような表現方法で主張を伝えるかに方向性が変わると考えられます。
また文字や音声や情景描写のような説明的なものがない、非言語的な方法での表現となると、もはや製作者の込めた意図が観察者に届かなくて当たり前になります。
情報伝達ではなくて、非言語的コミュニケーションによる相手の感情への何らかの変化を及ぼす行為になるわけですね。古来からの宗教画なんかには元々この意図があったと思われます。
神々しさ、威圧感といった印象を与えることで権威を持てたでしょうから。
リアルである必要でなく、また宗教との関連性が不要となれば、芸術作品の方針は、相手の心を動かせるのであれば作品は美しくなくても構わない、となったはずです。炎上商法みたいなもの。
そうすると今度はいかに突飛で奇抜な表現であるかを競うようになるでしょう。
足し算的な表現もあれば、引き算的な表現もある。
また時間の経過によって変化するものもあるだろうし、人が観察すること自体がまた作品になんらかの変化を与えるという動的な表現も現れる。
こうして既存概念、過去からの文脈、制作の型や伝統という枠組みがなくなると、芸術はかなり無形の概念的なものになるでしょう。
実際僕が現代アートでよく分からない作品と直面すると、
「これは何を表しているんだろう?」
「何を伝えようとしているのだろう?」
「伝えようとすらしていないのかもしれない」
「こちらに作者の主張が伝わるか伝わらないかを作者が試しているのかもしれない」
「目立った特徴のないこの作品から何らかの意図を見出そうとしているこちら観察者の振舞いを滑稽だと笑っているのかもしれない」
「もしかしたら何らかのメッセージを受け取ろうとしていること自体をリターンを求める気持ちだとして諫めているのかもしれない」
のような様々な考えが頭に駆け巡ります。
最終的に、この作品と自分との間に生まれる謎の思考と感情のループが、エンタメでもあり、思考実験でもあり、哲学でもあるような、混沌とした思考の渦のように感じられてきます。なかなか面白いです。
後から興味が湧いて藤田令伊『現代アート、超入門!』という本を読んだのですが、やはりこういった思考の変遷があったことを知って目から鱗でした。
アートは時代性との関係性が強いので、今回の横浜トリエンナーレでも、今この時代背景の中で生まれた作品が反戦や反体制のようなメッセージ性を帯びるのは当然なのかもしれません。
アートと触れる意義
リベラルアーツが重要だという主張も多いのは、アートをめぐる多面的な解釈の変化幅を理解することなんじゃないかなと思います。
社会というマクロでも、個人の成長やビジネスといったミクロでも、進化のためには固定概念、既存ルールを打ち破る考えと行動が必要になります。
そういったときに、物事をつぶさに観察して多面的に捉える力や、着目したある特定の場にはない新しい風を吹き入れるような意外な発想力が必要になってくるわけですが、これを鍛えるのにアートとのふれあいが必要になってくるのでしょう。
ゼロからイチを生み出すクリエイティビティは天才が持つ類まれな才能なのだと僕はかつて思っていましたが、閃きだって人間の脳の産物なのだから、はっきりとした記憶とはっきりしない記憶との混合、坩堝の中からの確率的なアウトプットであるにすぎないはずです。
インプットが多ければそれだけ、目的に応じたもの閃きやすくなるでしょう。
またこの発想の引き出しのスムーズさや、イメージを具現化するアウトプット技術というものも会アウトプットの多寡によって変わってくるでしょう。
なので幼少より多く芸術に触れ、多くアウトプットの試行錯誤を重ねてきた人はアーティストに近づくのだと思います。
僕は今ではバンド活動もしていないですし、アーティストではありません。
料理を作るのはどちらかといえば課題解決的なデザイン寄りですし、ブログは日記、情報伝達の意味の方が大きい。
しかし自分の人生という単位で見れば、自分からみて満足のいく人生を送る、という点や、他者から見て面白いと思える人間になりたいと思う気持ちに適う行動をするという点では、これはアートとも言える気がします。
人生はアートだ、というときっと多くの先人が使い古した言葉なのでしょうが、家族、地域、自治体、国家という大小さまざまなコミュニティや、我々が生きるこの時代を形作っているのは我々一人一人の集積なので、我々一人一人が芸術を学び、鑑賞、評価、制作の機会を持つことはかなり重要なことなんじゃないかなと思います。
おわりに
各項で言いたいことを大体言い切ったので特に繰り返すこともなさそうです。
なんか芸術的な活動したい。
以上!
モイモイ!
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