Moi!
こんにちは、ロニーです。
雨天か強風の晴れか、という天気だったのが、ようやく春らしい暖かい晴れの日が登場するようになりましたね。
早くも三寒四温の季節。
最近、家族で菊川近くにある東京現代美術館と、
あと久々に瑞江にあるDeakin ST Coffee Standに行ったので今回はそのエピソードです。
アートとコーヒーを楽しむ
現美のMOTコレクションを見に行きました
東京現代美術館へは今回は特にコレといった目的なく、ふらっと見に行ってみました。
内容はMOTコレクションから3本立てで、
「歩く、赴く、移動する 1923→2020」
「特集展示 横尾忠則―水のように」
「生誕100年 サム・フランシス」
でした。
コニーが生まれる前にオラファー・エリアソンを見に行きましたが、その時に見た展示も一部発見。
今回はコニーもいたんですが、薄暗い展示エリアがコニーには若干怖かったようで「帰りたい」連発で大変でした。
なかなかコニーと美術館・博物館行くのは大変だ…。
「歩く、赴く、移動する 1923→2020」は、移動をテーマにした色々なアーティストの作品群。
コニーが居たので足早での閲覧になってしまったけれど、鉛筆で巻物に書かれた見事なパノラマの古い町並みの絵に驚き、最近の街歩き写真に楽しさを感じ、切り刻まれたりされた岩波文庫本に考えさせられたり、興味深い展示でした。
横尾忠則の絵は初めて見ました。
性や命や宗教的なモチーフを用いているんですが、それをキュビズムやモダンアートの自由さでもって、DJのようにミックス・配置してカオスな化学変化を起こしていて新鮮でした。
昭和をミクスチャーしたような掠れたトーンの色合いに、プロパガンダポスター調のメッセージ性。
正直好みではなく、なんとも胸焼けを起こしそうな気持ち。面白いと言えば面白い。
サムフランシスに関しても全く知らなかったんですが、巨大なキャンパスへの大胆なアウトプット、美しい色使い、解像度の高い大小の筆絵が同時並行的に存在している様などに正直感激しました。
じっくり見たくなってしまう強い魅力を感じました。ほんとすごい。
メッセージを思い通りに伝えるということ
自分が何をどのように表現するか、を考えるときには、自分の内面とガッツリ向き合う必要があります。
また、表現するものや方法が決まったとして、自分のイメージを満足いくようにアウトプットするために必要な技術力について。
技術力が及べばいいですが、それが足りない時の葛藤もあります。
つまり「思った通りに作れない!」というやつ。
さらには、自分が生み出したものに込めたメッセージが受け手に届くかどうか。
メッセージを文章や言葉ではない、非言語コミュニケーションとしてなんらかのビジュアルでダイレクトに伝えようとしても、あるフィルターが挟まります。
創り手と受け手には完全な共通認識がないため、受け手の持っているボキャブラリーのうちで最も近しいものとの関連性において、例えたり比較して新しい情報を捉えようとするフィルターです。
そのためメッセージが思った通りに伝わらなくなるわけですが、そのハードルをどのように取り扱うか。
アート作品を見ているとこんなことが脳内に渦巻きます。
僕は創作をする際にはテーマやコンセプトがとても重要だと思っているタチです。
むしろそのテーマやコンセプト自体が一番の核で、それをアウトプットするための技術は2次的なモノだと捉えています。
ただ、Cornersをやっていたとき、作曲する側の2人はそういったテーマのようなものを銘打つのを否定的に捉えていました。
というのは、メロディーだとかリフだとかは、なんとなく弾いてなんとなく良いと思ったものを源にしているからテーマありきで作っているわけではないし、タイトルや歌詞などを冠すると相手にまずそちらのメッセージが最初に伝わり、その事前情報を前提に曲を聴かれてしまうため純粋に曲を受け取ってもらえなくなるからだそうです。
「正直曲名とか歌詞はどうでもいい」
「こっちが投げたボールをどう受け取るからは相手次第。買ってもらったCDをどう聞いてどう扱うかはぶっちゃけどうでもいい。フリスビーにしたところで文句は言わない。」
「こっちがカッコイイと思って演奏した曲を、お客さんがなんとなくいいな、好きだなと思ってくれてその場を楽しんでくれればそれでいい。」
というのが作曲陣の意見でした。
それはそれで確かに納得しました。
Cornersの楽曲において僕は自分が担当するドラム部分しか決めていなくて直接作曲していない以上、その曲をどういう風にしたいかというプロデュース面は作った本人の意向を尊重します。
仮に創作で食っていこうと思った場合にはやはりその作品に対価をいただかなければ活動が続けられなくて、どこまで自分の主張を純粋に押し通すか、というジレンマにぶつかりますよね。
僕なりの結論としてはこうです。
どういう形であれ、きっと自分の作品を好きだと言ってくれる人はどこかに居るので、それをどれだけマーケティングを意識して多くの人に届ける機会を作れるか、ということが重要なので、とにもかくにも続けることと、色々なツール(SNSなりイベントなど)を使って人に触れる機会を作ることを並行して頑張るべし、です。
いくらいいものを作っても、他者の目に耳に届かなければ存在しないに等しいですからね。
なので例えば商業主義的などと言われたとしても、その匙加減を決める意図にすらアート性が含まれるため、そこも含めてフラットに受容したいし、その観点も含めて面白いと思っています。
アーティストはおしゃれカフェに行かない?
美術館に行ったのとはまた別のタイミングですが、
瑞江にあるDeakin ST Coffee Standに行ってきました。
強風の中、東部交通公園というところでコニーと自転車の練習をした後、僕の好きなカフェへと移動。
以前来た時に、ここのオーナーさんが「お客さんはクリエイター系の人が多い」と言っていたのを思い出して、クルタさんにそのことを言ってみました。
すると意外な反応。
「こういったおしゃれな店に来るクリエイターは本当のアーティストじゃない気がする。」
え、そうなの??
「創作活動をガチでやってる人はまずお金全然ないし、引きこもって黙々と何か作り続けてる。少なくとも自分の回りはみんなそんな感じ。行く店がお洒落かどうかとか全然気にしてない」
おー、なるほど。
そういえば確か昔ギタリストのマーティ・フリードマンだったと記憶していますが、
「ギターを上手くなりたい?なら友達も彼女も作らず家で一日中ギターを練習しろ」的なことを言っていた記事を思い出しました。
確かにそうなのかもしれない。
プログラマーの世界でも、一流のプログラマーはワークライフバランスとか給料とか華やかな職場環境とか考えず、ただプログラミング自体が面白いから朝から晩までずっとコーディングだけしているとよく言われています。
インフラエンジニアの世界でも確かにそんな感じでした。強いやつ大体めちゃくちゃ仕事してる。
もちろん、社交性があったりお洒落な環境が好きなアーティストだって多くいるだろうが、他者の目によく映ろうとしているアーティストはなんかしっくりきません。
なぜ「きっとアーティストはお洒落なお店とかファッションとか素敵なものに囲まれているんだろう」と思ってしまっていたのか、それはそれで気になります。
その辺ももしかしたら広告代理店の洗脳によるものなのかもしれませんね。
おわりに
最近はデザインやアートやクリエイティブな事柄にも色々興味が強まっているので日々の中でもこういった機会が印象に残るようになりました。
クルタさんは創作作品を見ることについて、
「自分だったらどうやってこれを作ろうかなっていつも考えているから映画とかマンガとか創作作品のストーリーを純粋に楽しめなくなっている」
と言っています。
僕は大体没入してしまうのでクルタさんとの間には大きな隔たりはありますが、例えばライブ映像とか音源を聴いたときにはまずドラムが耳に入ってきて、
「自分だったらもっとこうしたい」とか「自分がこれを先にできなかったことが悔しい」のように思うので、その点では共通している気がしました。
ITの仕事をしているとひたすら論理やエビデンスや整合性、正確性のような思考に偏ってしまうので、適宜こうして既存の枠組みを取り外すような自由な思考を取り入れて脳をリセットしたいものです。
はい、今回は以上!
Heihei!
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