四十九日を過ぎて

四十九日を過ぎてサムネ

こんにちは、ロニーです。

父の命日は7月17日だったため、いわゆる四十九日は、9月4日でした。

今回、僕としては初めての四十九日法要の経験だったので、
そのエピソードについてまとめます。

 

祖父が亡くなったころは、僕はまだ確か20代半ばくらいで、
当時は介護の仕事が休みが取れない状況でした。
なので法事で出られたのは葬式~火葬まで。

幸い今は正社員で、土日休みなうえ、忌引きも使えたためだいぶ助かりました。

四十九日を過ぎて

四十九日の考え方と行ったこと

四十九日では、以下のことをしました。

  • 納骨の手続き
  • 四十九日法要
  • 位牌と本尊の開眼法要
  • 納骨
  • 食事会

納骨の手続きについて

役所で死亡届が受理されると、火葬許可証という書類を貰います。
火葬場で火葬が行われると、ここに日付などが記入されて埋葬許可証に変わります。
お墓に行って、その事務所で埋葬許可証を渡して手続きすることで、ようやく納骨できることになります。

段取りはシンプルなのでそこまで手間はかかりませんが、大事な手続き。

四十九日法要について

仏教には、亡くなった日から数えて7日ごとに、死後に行く世界を決める審判がされるという考えが方があります。

地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天(上)道

の6つの道があり、それを総称して六道(ろくどう/りくどう)と呼びます。

7日間×7回(初回含む)で49日目ってことですね。

この各週で法要を行うことで、良い道に行けるように願うわけです。
親戚などが集まって、強く祈ってあげると良いそうです。

一周忌や○○回忌のように、何度も繰り返し願って極楽浄土に行けるように漆塗りします。
挽回のチャンスはいっぱいあるってことでしょうか。

同じ仏教でも宗派によって教えが異なるので、
これが正しい、これが正解、というものはありません。
宗教なので、自分はこれが正しいと信じるのであれば、それに沿うことになります。

我が家の父方の家系では真言宗を受け継いでいるのですが、
真言宗は例えば信徒の多い浄土真宗と比べると作法が多く、法要も比較的多い方だと思います。

仮に審判の日に法要が間に合わないのであれば、その日よりも前に行っておくのが作法だそうなので、この度は9月4日の前の日曜日、9月1日に四十九日法要と本位牌の開眼法要(かいげんほうよう)を行いました。

開眼法要というのは、位牌だけでなく墓石などにも行う「魂入れ」とも呼ばれる儀式です。
真言宗では5つの目を開く、という意味なので魂入れとは考え方が違うのですがその辺はマニアックすぎるのでこの場では端折ります。

四十九日の会場は四十九日法要に合わせて位牌や墓に対する開眼法要を行うので、
お墓のあるお寺で行うことが一般的です。

うちは祖父のお墓のある霊堂がある、高尾まで赴きました。

 

霊堂内に仏教徒用の祭壇が用意されていたため、そこまで和尚(わじょう)さんを呼んで法要を行いました。
宗派によってお坊さんの呼び名は異なりますが、
真言宗では和尚(おしょう)と書いて「わじょう」と呼びます。

こちらが慣れていないこともよくご存じですのでリードしてくださいました。
法要後には簡易的ですがありがたいお話も聞けました。

祭壇

位牌と本尊の開眼法要について

位牌と本尊の開眼法要は、四十九日法要と続けてそこでそのまま実施しました。

位牌について

日本の仏教では、人が亡くなると、葬儀の段階で「白木位牌」(しらきいはい)という、故人の名前を書いた無垢の木の板が用意されることがあります。仮位牌とか内位牌とも呼ばれます。

浄土真宗では人は亡くなったらすぐに成仏し極楽浄土へ行くと考えられているため位牌はありませんが、真言宗では用意することになります。
今回はお葬式を頼んだ葬儀屋さんで白木位牌も一緒に用意してくださいました。

 

日本は古来からアニミズム信仰があって、あらゆるものに神仏が宿る考えがあります。
神が宿る樹とか岩とか、付喪神(つくもがみ)とか、そういうやつです。
神仏・霊魂が宿った物は「依り代」(よりしろ)と呼ばれます。位牌も依り代です。

仏教はヒンドゥー教と同じく輪廻転生を信じますが、
古代インドから始まった原始仏教では故人の魂は転生するため、物には宿りません。

現在の日本仏教に伝わる位牌に関する思想文化は、儒教の木主(ぼくしゅ)という概念に、神道のアニミズム信仰、それに両方の祖先崇拝が混ざった末に生まれ、後から仏教に取り込まれたもの。

そういった漠然としたルーツだからか、他の仏教作法と比べると割合自由度が高く、デザインも様々あって、故人の雰囲気に合ったものを選べます。

キリスト教でも例えばクリスマスの起源のように、布教以前の土着信仰を取り込んでます。
信仰・宗教ではこうした文化の包摂・習合はよくありますね。

店舗での位牌選び

店舗に並ぶ位牌のディスプレイ。サイズ、形、仕上げなどバリエーション豊か。

本位牌は仏壇用の本尊と併せて仏壇のはせがわで購入しました。

注文すると、会津にあるという職人さんが享年など必要な文字を入れて受け取りの店舗まで送ってくれます。
ちょうどお盆休みの期間が挟まってしまったのでギリギリでしたが、
休日等含めて延べ2週間で受け取れました。
8/15発注完了の、8/28到着だったかな。

 

位牌一つ決めるにしても、選択肢が非常に多いです。

金額的には8000円~数十万円くらいまでありますし、形も色も漆の仕上げも様々。

文字を「彫る」のか「書く」のかという差があるほか、
書く内容も例えば「享年(きょうねん)」にするか「行年(ぎょうねん)」にするか。
数え年にするか満年齢にするかなどなど、

「どれにしてもいいものだけど、どれにしたいか」
というのを都度考えて決めていく必要があります。

故人本人は自分の位牌をどうしたいかなんて言い遺しも書き遺しもしていなかったので、
誰かが決めないといけません。
うちは弟(と叔母)の意向を中心に、諸々のコンセンサス取りつつ定めていきました。

最終的に受け取った本位牌を当日、法要に持って行って、開眼法要を執り行いました。

 

以下は我が家での四十九日までの仮祭壇の様子。白木位牌が立てられます。

四十九日までの仮祭壇

生花にお供えもいっぱいで賑やかな様子。

本尊について

真言宗では、本尊は大日如来
その大日如来像を本位牌とともに仏壇に供えます。

真言宗は密教がルーツです。
平安時代初期に、空海が唐に渡って密教を持ち帰り、仏教の真言宗として広めました。

仏教は奈良時代には既に日本に伝わって広まっていましたが、天皇家での政争が度々ありそこに仏教も密接に関わって世の中が乱れていたことから、空海は正しい仏教の教えを学ぶ必要があるとして唐に渡ります。

唐は当時はアジアにおける大帝国で、社会の成熟度合が日本と比べて非常に先を行っていました。
歴史を見ると、当時の日本社会全体が、文化も技術も政治も唐から学ぶという強い意識を持ってたようです。空海もそうだったわけですね。

 

密教では宇宙の真理を表したのが曼荼羅(マンダラ)であり、
菩薩・如来の配置自体が重要な意味を持つとされています。

その中心が大日如来で、大日如来自体が宇宙であり、この世の真理を表すとされています。

そういったわけで、真言宗では大日如来像を仏壇の最上段の中央に備えますが、
大きい仏壇であれば仏像を、そうでなければ掛け軸に描かれたタイプを選ぶ感じです。どちらでもOK。
うちは掛け軸のものを選びました。ちなみにこの本尊のグレードもピンキリです。

真言密教では「阿(あ)」の字が大日如来、即ち全宇宙の真理を表すので、
ぶっちゃけ像でなくとも、「阿」の字だけで理論上は良いのではと思いますが、どうなんでしょう。

納骨について

納骨はシンプルです。

祖父・父のお墓は霊堂なので、ロッカーにしまう形です。
ロッカーに配置し、参列者で順に手を合わせればおしまい。
この間も和尚さんは付き添っていて、高速で読経してくれてました。

 

ゆくゆくは、というか遠からず、僕自身の墓をどこかしらに決める必要がありますが、
決まり次第、父の遺骨は移動するつもりです。(現時点では。)

ただしお墓もピンキリで、安くとも80万円~200万円ほどかかってしまうためすぐに買うのは大変で、墓代の積み立て貯金を開始予定です。
奨学金を払いきるのがもうすぐなのでそこからスタートします。

納骨堂

祖父が4つ分のスペースを契約していました。空きスペースは一時的に写真などを置いて。

食事会について

仏教では法要の後の食事会をお斎(とき)と呼びますが、本来は和尚さんに振舞うものなので、今回その形ではないこの会はここでは普通に食事会と呼ぼうと思います。

精進料理とか懐石料理を用意するのが伝統ではありますが、
我が家では霊堂近くのお寿司屋さんを予約しました。

開眼法要やお斎はどちらかというとおめでたい方の催しですし、お寿司、問題ないでしょう。
費用は飲み物別で一人4000円以内だった気がします。

寿司屋の入り口

美味しくて賑やかでいい感じの会になりました。

逝去から2か月近くともなると死の衝撃も受け入れられて、生活も日常に戻ってしまっているし、心境としてはみんな落ち着いています。

ただ、子も孫も揃っていて美味しいものを食べているこの場に父本人が居ないということにはどうにも拭い切れない寂しさがつきまといますね。

お供え

おわりに

タイムリミットが決まっている法事としての区切りである四十九日法要が終わって、一段落しました。

実際にはそのあとに父の住んでいたアパートの引き渡しがあって、それが9月末。
先日ようやく終わりました。

ただでさえ急な死によって心の整理が出来ていない中で、やることが多いのは非常に大変。

簡易的に済ませようと思えばかなり端折れる部分は多いのですが、
一方でやることも予算もつぎ込もうと思えば青天井に豪華に出来ます。

 

宗教は「強く願ったもん勝ち」みたいな部分があります。
これは論理とか合理性とは全く違う部分です。

自分が強く信仰心を持って、没入すればするほど非日常感や高揚感を得られて、それが強い柱となって不遇や逆境に折れない支えとなる。

一方で、それは独善的で、妄信的で、危ういものでもあります。

信仰心は、本来生物としては細胞レベルで抗う、死すらも超越してしまう。
だからこそ死への恐怖や悲しみに対抗しうるわけですが、
為政者・権力者が国民を戦争に徴兵したり、統治したりする上では非常に都合のよいものでもあるため、常に操作・洗脳されるリスクが伴います。お金も時間も惜しみなく供出させてしまう力があります。

また同様の理由で他宗教、多宗派、他信仰の人に対して排他的で敵対的になりがちでもあります。

宗教や信仰はそんな危険性を大きくはらんでいますが、
葬儀から四十九日までのこういった儀礼を通して、
ちょっとずつ心が整理されて折り合いがついていく効果は実際あって、僕自身もそれを体感しました。

10年以上前、かつて僕が彼女にフラれたときも喪失感、無力感で精神がおかしくなるような状態を感じましたが、その時は目の前の仕事が支えになりました。
休めない仕事ために乱心・放心状態であっても人と会い、身体を動かすことが精神を保ってくれました。

宗教儀礼によってあえて身体を動かさせ、人と会わせる。
それが大事な人を失う痛みを和らいでくれる。

そんな合理性も実感できた、49日間でした。

はい、非常に長くなりましたが、今回は以上!
モイモイ!

 

ちらし鮨を食べる

コニーも遂に生魚デビュー。ちらし寿司を食べました。

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