Moi
こんにちは、ロニーです。
父が亡くなってから早くも2週間以上が経過しました。
かなり日常が戻ってきた感じがします。
四十九日までの間は遺骨と白木の位牌を置いておくために祭壇を用意するのですが、
我が家だと置き場としては押し入れの上段となります。
幅、奥行き、高さともに丁度よく、押入れが祭壇に合わせているのか、
はたまた祭壇のサイズを押し入れのサイズに合わせているのかと思うくらい。
とはいえ、弟からすると窮屈に感じるそうで、
約1週間の後に弟が迎えに来て父の位牌その他は引っ越して行きました。
彼の家はかなり(サイズ的に)余裕があるとのこと。
毎朝炊飯し、お供えし、線香を立てるのにも慣れたところなのでいざ居なくなると寂しさもありますね。
さて、今回はお金の使い方、という話。
「遺産」というとドロドロとした雰囲気だとか生々しさを醸し出してしまいますが、死後に留まらず、基本的なお金の使い方、即ち金銭感覚の話で色々思うところ、考えることが増えたのでまとめようと思います。
個人と故人のお金の使い方
意識しなければ、お金はすぐに消えていく
お金は、強く意識しないと、すぐに消えていってしまいます。
使おうと思えば一瞬で消えてしまうし、
使おうとしなくても、何も考えずに生活していると、これまたすぐに消えます。
常日頃、あらゆる消費行動において「お金を使わない!」と心に誓っておかないとすぐに減っていきます。
我々の身の回りのお店やサービスは、あらゆる面で我々の消費を喚起し、
もっと良いものを、もっと便利で楽なものを、
もっと楽しくて早くて感動的なものを提供し、お金を出来る限り多く払わせようとしてきます。
さらに、より多く、より良いもの、グレードの高いもののために消費することを美徳であるかのように思わせてきます。
質が良くて高価なものを持っている人を、まるで賞賛されるべき人間であるかのように社会通念を醸成していきます。
わざわざ高いお金を払う必要のないものの方が多いのに、
なぜか人は「より良いもの」にお金を使ってしまいます。
だからこそ、お金に余裕のある生活をしたいと望むのであれば、
強く強く、お金を使わない、ということを考え続ける必要があるのです。
生きていくために必要なお金は少ない
「立って半畳寝て一畳、天下取っても二合半」という言葉の通り、
最低限生きていくために必要な金額は少ないものです。
それにその最低限というレベルって、現代的な目線からするとかなり低いものです。
日本国憲法第25条で保障されている、「健康で文化的な最低限度の生活」という目線では、新聞を読んだり携帯電話やインターネットを使うことは含まれますが、旅行は不可能だし、食べ物も国産食品は厳しいかもしれないレベルです。
それであっても、充分生きてはいけることは確かです。
働けない人はともかく、何らかの仕事にフルタイムで従事しているのであれば、自給自足や生活保護のような生活レベルにまで消費を抑えて、本当に使いたいタイミングで使うようなメリハリのついた生活をしていれば、結構貯金だって貯まります。
僕は実体験から、それが言えます。
僕は旅でお金を使い果たし借金がある状態から31歳がスタートしました。
バイトを見つけ、使用社員、正社員とステップアップしていきましたが、最初の2年間は月収が総額28万円程度でした。
その間、特に借金を返済するまでの最初の半年は1日1杯のコーヒー以外の嗜好品や娯楽、レジャーを無くし、付き合いも極限まで制限しました。
(さすがに親友の結婚式には行ったけども)
返済後は、月に1回程度は外食したり、ちょっとアイスやスナック菓子を買う程度の余裕は生まれたのですが、生活レベルを上げすぎないように意識したことで、今まで持ったことのないほどの貯金が貯まりました。
生活レベルを下げて生まれた余剰金、これによる「心理的な余裕」こそが、
消費の豊かさを超えた人生の充実感に関わってきているように思います。
出費を減らすために必要なこと
出費は、意識して消費の一つ一つを制限して、それを継続することで減ることを止められます。
その際、まず真っ先に捨て去らないといけないのは、
「見栄」とか「恥」のような、いわゆる「外聞」の類です。
他人の目を意識した途端に出費は爆増します。そしてそれは青天井です。
ぶっちゃけ他人はほぼ全く自分のことなんて気にしていません。
自分が安物の服を着てようが、一緒に行った店で一番安いメニューを選んでようが、プレゼントで安いものを渡してこようが、ぶっちゃけ大して何とも思わない。
それで付き合いを止めよう、友達を止めようなどと思うことはないもんです。
というかむしろ、それで関係性を見直す程度の相手であれば、
私の内面を見てないってことですから、さようならしてもいいと思います。
考慮すべきとすれば、商談、ハレの日、デートとか、ステージや発表の場くらいじゃないでしょうか。
「自分の身なりで評価されるのが確実と思われる日」などですかね。
それでも多分、いざ終わってしまえば他人が身につけていたものなんて大概誰も覚えちゃいません。
他人の目の次に捨てるべきは、「利便性」です。
駅近物件や乗用車、電動自転車から、様々な便利グッズ。
サブスクサービス、コンビニ、自販機、有料の配送サービス、有料の買い物袋まで、
便利なものは無限にあります。
ちょっとでも手間を省かせようと、あらゆるものに便利なものがあります。
人によってどこにお金を使いたいかはそれぞれなので、食洗器とかお掃除ロボットとかUberEatsとか、それなしでは生活が成り立たない人であるとか、その便利なものによって浮いた時間、労力、思考スペースなどで、それによる出費を上回る満足度を得られるのであれば、どんどん使えばよいでしょう。
しかし多くの場合、極論、無くても何とかなります。
全く問題なく生きていけます。
さてここまで来て、一体ロニーが何を言いたいのか。それは、
「お金を多く使うことは当たり前ではない。」ということ。
「お金を使わないと生きていけないわけではない」ということ。
これは自分が結婚してからこの5年間で学んだことでもあるし、
同時に今も自分自身の課題として考え続けないといけないことでもあります。
僕は僕から見た「一般的な目線」で自分自身を見つめた場合、かなり節制をしている方だと思っています。
一方で、妻クルタさんには毎日のように「頑張ってお金を使おうとしないで」「無駄遣いが多すぎる」「お金がないと生きていけない散財男」のように言われています。
事実、僕から見てクルタさんは確かに消費のためにお金をほとんど使いません。
例えば服とか本を買ったなど、稀に消費にお金を使ったように見えても、使った後にそれを転売して買った時以上の価格が戻ってきているので結果的に使っていないに等しい。
なのでクルタさん目線で僕自身を見ると、確かに恐ろしく消費してしまっていると思います。
僕の身の回りにはクルタさんのようにお金を全く使わない人が全然いなかったので、クルタさんが異常な節制家なのだと思っていました。
しかし知り合って暫くして、クルタさんの知人親戚にそのようなナチュラル節制タイプが多いことに気づきました。ここから、これは「常識の差」なのだと理解しました。
自分と自分の回りの人にとってのお金の使い方の常識が、他者とその周りの人にとってのお金の使い方の常識と全く違うことが、あり得るわけですね。
父の部屋、父の口座から見えてきた、父のお金の使い方
亡くなった父の家の片付けが始まりました。
父は腰のヘルニアが酷く、長年強い腰痛に悩まされてきました。
27歳頃に転んで腰を打って以来、腰痛持ちとなり、計4回だったか5回だったか、手術をしています。
腰にボルトが2対入っていて、昨年11月には機械を埋め込んで電気で痛みを軽減させる方法まで取っていました。
昨秋は補助がないと歩けないくらいにまでヘルニアが悪化してしまって仕事が出来なくなっていたのですが、その最新技術によって大幅に改善、最近は仕事も増えて稼ぎも増えていました。
そんな矢先での急死でした。
これは僕の想像ですが、いつ働けなくなってもおかしくない体調面や、老後資金がほとんどないこと、年金額も僅かであったことなどから、この1、2年はかなり節制していたんじゃないでしょうか。
狭いワンルームの家に引っ越しし、趣味のガーデニングで野菜やハーブを作り、持っていた趣味の品をヤフオクで次々と売り、なぜか給与にも年金にも手を付けず、ギリギリまで切り詰めた生活をしていたことが後から見えてきました。
僕から見て父は元々贅沢するタチではなかったものの、節約・節制する感じでもなかった印象です。
僕の幼少期にはキャンプとかカラオケとかボーリングとかよく連れて行ってもらったし、「食べることだけは絶対に困らせない」と豪語して、いつも「好きなだけ食え、もっと食え」と言われて育ちました。
焼き肉やラーメンを食べに連れて行ってもらったことも多い。
そんな、身内ではあるものの自分とは違う人の金銭感覚を知るにつけ、
より一層「自分の思うお金の使い方」というのは絶対的なものではなく、
不変なものでもないことが分かりました。
どこにお金を使うか。
どうやって稼ぎ、どうやって使うか。
その稼ぎ方、使い方は、自分の心に問うて、本当に正しいと思えるものか。
その答えも、感じ方も、自分の人生ステージや社会の変化によって刻一刻と変わっていくものなのでしょう。
だからこそ、常々、考え続け、自分に問い続けないといけないんだと思います。
遺産をどう使うか
父の葬儀代などは、どうやら父の遺してくれたお金で賄えそうです。
そしてどうやら幾ばくかは、子の僕にも遺産が入って来るようです。
生前、「お前らのためにお金を残しておくから、兄弟二人で喧嘩せず仲良く分けろよ」と何度も言われました。
その都度、「俺は別に何も困ってないから、自分のために使ってくれ。」と返答してきました。
「もし残したいのなら、揉めたくないから一筆何か書いといて」と答えたこともありますが、さすがに死期を感じるには早すぎる死でしたので、どこにも書き残してはいないでしょう。
さて、じゃあ残ったお金を、どのように使うか。
葬儀にしても、位牌一つにしても、片づけ方にしても、グレードを上げれば青天井。
いくらお金があっても足りなくなるでしょう。
一方で、例えば無縁仏のようなケースも世の中にはあるわけで、極最低限にしようと思えば、ほとんどお金を使わずに終活を終えることも可能でしょう。
故人の遺したお金の使い方は大別すると2通りあると思います。
一つ目は、故人の考え方に徹底的に沿う方法。
もう一つは、遺された人の考え方に沿う方法です。
我が家でいえば、亡き父の考え方を優先するか、
僕含め遺された知人親戚の考え方を優先するかです。
どちらも正当性はあるでしょう。
人が亡くなった後は、結局は動くのも、感じるのも、管理するのも残された方です。
生き残った知人親戚の心の満足度、精神的安定性を考えざるを得ません。
例えばわが父は生前には、うろ覚えではありますが、
「俺は葬式とかはいいから、死んだら骨は島と本土の間の海に流してくれ」と言っていました。
僕も当時はそれはいい考えだ、と思っていましたが、
いざその時が来てみると、やはり多少なり自分、そして弟やその他親戚知人みんながその突然の死との折り合いをつけるための時間や場があった方がいいのではないか、と思いました。
そして前の章でも話したように、死後どのようにお金を使うかという考え方は親戚一人一人にしたって大きく違うので、やはり多少なりぶつかるわけです。
「お金を節制していたのだから、その意志を継いで節制した形で終えたい」というのも、逆に
「お金を節制していて可哀想だったから最後は贅沢に使って見送りたい」というのも、
どちらも説得力があります。
ただ難しいのは、故人も人によって違う接し方を持っていたはずなので、仮に遺志を継ぐとなっても人によって解釈が異なってくることですね。
明示的な遺言書のようなものがあれば別ですが。
親に見せていた顔、子に見せていた顔、友人に見せていた顔は違って当然でしょうから、これもまた遺された人たちの間でぶつかる1つの課題だと思います。
伴侶、親、子供、親友などは本人との関係性がとりわけ深いし、
そこに兄弟姉妹、親戚まで出てくればカオスです。
誰か最終的に優先すべき人を選ばないといけない。
しかしそれぞれの人の意向も完全無視はできない。
遺言、想像以上に超大事だな…。
誰の考えを優先するか
またさらに、遺された遺産と受け継ぐ遺産を、一体どのタイミングでどのように使えばいいというのかも問題です。
めちゃくちゃ難しい問題です。
僕としては、父が稼いで父が残した父のお金であるのだから、
全て父だったらどう使うだろうかと考えて使いたい。
勿論、僕と父は全く異なる性格だから、その想定が100%正しいということはないはず。
そして弟は弟できっと全然違う考え方をするだろう。
少なくとも、僕と父とで共通するのは、
「喧嘩せず仲良くすること」という点。
これだけは確実にしたい。
だから、もし僕が考えた、父の遺したお金の使い方で弟と喧嘩したり揉めたりするくらいであれば、僕の考え自体を捨てるべきなのでしょう。
そして僕自身が使えるお金として手元に来た時、僕自身のフィルターを通して父の考え方を反映させるのであれば、おそらく僕はコニーが必要とした時に使うことになるだろうと思います。
コニー食べたいものを食べさせたり、何かやりたい体験があった時、それをさせられるように、大事に取っておくことにすると思います。
おわりに
考えること多すぎる。
やることも多すぎる。
でもこの一つ一つを、
そして同時にこの一瞬一瞬を、しっかり見据えて丁寧に生きて行こう。
少なくとも僕ロニーは元気です!
コニーも元気です!
仲良く楽しく元気よく、生きていきます。
これからもよろしくお願いいたします。
ではでは。
モイモイ
コメント